
自己責任、既に目新しくなくなった言葉ですが、オカルトに関係してもこの言葉が出てくるときがあります。
曰く、「あんなのに嵌ったのは彼・彼女の自分の責任、自己責任だ」等などとあかの他人が論評し、せせら笑うのはまったくその通り。
しかし、注意するべきは損害を及ぼした当事者である団体や人物によって、「参加したのは君の意思だろ、損害を受けても君の自己責任だ」とか、「信じた君が悪い」という主張、責任逃れの主張の道具とされる点である。詐欺師の論理と一緒と思うが。
そこで少し考えた。通常自己責任は最終的な・終局的な損害の帰属の問題と思う。
しかし、最終的に損害が帰属するとされる人物の意思決定と損害発生の因果経過に、他の帰責事由の存在する相手方・第三者の行為が介在すれば、そちらがまず責任を負う(損害を負担する)のが原則である。そして、その人物の意思決定と損害発生の因果経過に介在する他の帰責可能なものが存在しない場合や、帰責可能なものに損害を負担させてもなお損害が残っている場合に初めて自己責任の問題が生じるのではないか(相手方当事者が当然に免責されるわけではない)。
ところで自己責任(少なくとも社会で問題になる場合)は抽象的には最終的損害を誰に帰属するべきかという法的概念で、具体的には金銭債権請求(「損害出たぞ、金払え」)の問題である。しかし、「純粋」な道義的な問題については、強制執行の対象となる「責任」は観念し得ないし、損害を負担しろと主張わけでもない。従って、自己責任の議論が妥当する領域ではないのではないか。
仮に道義的問題に適用があったとしても、損害を与えた当事者が相手方の自己責任を自らの免責事由として主張することを認める事が信義則上認められるかはいたって疑わしい。
そして、なによりも仮に道義的責任の問題に自己責任が適用される余地があるとしても、完全に自己責任によって説明できる場合は、そもそも道義的責任自体が発生しないのではないか。
また、自分(被害者)の何らかの意思決定に由来して損害が発生したとしても(自己責任で説明できる部分があった場合でも)、その間に道義的義務(損害が拡大しないようにする義務など)を負う相手方・第三者が存在し、その者の義務に違反する行為により損害が拡大した場合には、発生した損害全てを自己責任で完全に説明は出来ず、拡大した損害の限りで道義的義務に違反した相手方・第三者に道義的責任が生じ、相手方・第三者は自己責任を主張して自らの責任を免れることは出来ないのではないであろうか。
思うに、道義的責任が意識される場合は自己責任の問題が生じない場面であり、自己責任を主張して自己の道義的責任を免れることはない。
仮に拡大損害を発生された場合であっても、道義的責任が発生する範囲については、自らの道義的義務違反により拡大した損害と自らが義務を全うした場合生じたであろう損害の範囲を比較して拡大損害が無視できるといった特別な場合を除いては、相手方の自己責任を主張して道義的に自己を正当化することは認められない。
換言すれば、何らかの道義上の義務に違反し道義的責任が生じる場合、相手方の自己責任を主張して完全に自らの道義的責任を免れることは原則として出来ないではなかろうか。
自己責任という流行の言葉が、自ら果たすべき義務を果たさず他者に損害を与えた者が自己正当化するマジック・ワードとして使われているように思われてならない。
しかし、どちらにしろ法的問題として争うつまりがないのならば法的概念を援用することも無意味である。その上、オカルト関係者が相手方の自己責任を主張する場合は、そもそも何ら契約の成立が認められない場合か教義の問題であれば格別、何故か債務不履行等の法律上の責任が明確に認められそうな場合なのである。
結局「自己責任」の言葉は無意識であれ自覚的であれ、自己への批判を封じ、相手に責任を擦り付け、もって自己の矜持を維持し自己を正当化するために使用される場合が多い。特に最初から相手をだます意図でない場合はより両者にとり悲惨であろう。道義というのは本当に厄介である。