Let's meditate! Part2:
 瞑想が「今1つ」分からない


2・1 はじめに

 西洋魔術の実践において、瞑想の比率は高い。
 しかし、多くの人が、「自分はちゃんと瞑想しているのだろうか?」「瞑想が分からない」との疑問を持っている。 そこで、この話題を「黄金の夜明け」研究会MLでとりあげて多少なりとも疑問を解消したい。


2・2 定義

2・2・1 何故瞑想が分からないのだろうか?

 思うに、瞑想が分からない最大の理由は、「瞑想」という言葉自体の範囲が漠然としているからではないでしょうか。
 そして、何故漠然かを考えると、一つの理由は瞑想の「目的」がハッキリしていないからではないか。それに加えて、もう一つの理由は、多くの方が瞑想を何か「特別」のものだと考えている・想像しているからでないでしょうか。

 そこで、皆さんにお聞きしたいのですが、魔術の訓練としての瞑想の目的、或いは魔術の目的をどの様にお考えでしょうか?
 「私はこう考えている。」「こうではないのですか?」といったご意見ご感想を募集してます。
(略)
 瞑想も人それぞれの考え方がありますね。参考までに私の瞑想に関する考えを投稿しておきます。

2・2・2 私の定義

 私の瞑想の定義ですが、実は魔術の定義と同じぐらいいい加減に取り扱っています。
 何故なら、私は無意識のうちに魔術と瞑想を何か別の物に考えがちですが、フォーチュンの魔術の定義「意志に基づいて、意識に変化を生じさせること」を参照すると、瞑想も意志に基づいて内面(意識)の変化を生じさせるものであるのでフォーチュンの魔術に該当するはずです。そして、フォーチュンの定義は曖昧とは言いませんが、かなり広範な内容をカバーし余り人間の行為を魔術と非魔術に区分する定義として機能をなさない側面があり、いい加減と言い得るからです。そして実際も、本によっては限りなく儀式魔術と思うものを「何々の瞑想」と銘打っている場合も多い(キケロ自己参入の「マートの瞑想」など)。

 魔術を別にしても世間一般では、瞑想について、それほど厳密な用語法が採用されていないと思うのがよいでしょう。このへんの用語法は後で扱いたいと思っている観想と瞑想の用語法とも同様です。このへんで悩むと次のステップになかなか進めないので深く考えない事も重要と思います。

 そこで、私は瞑想の定義を「広く身体の意識化、精神を集中した祈りから、連想、果ては無を観じること、神の姿の視覚化まで、余り動かずに精神を集中して用いる活動全般」と大体規定しています。講学上は正確ではありませんが、実践上は間違いがないと思っています。
 但し、私の用語法だと瞑想との言葉が余り道具として意味を有さない。そこで、瞑想の目的瞑想の技法の分類や上手くできているかの基準にも自分なりの工夫をしています。

 尚、私たちの間では「瞑想」との言葉は強いて言えば「儀式」 Ritual、Rite、Ceremonyとの対比で問題になる概念ではないでしょうか。 それで両者の区別の為に今回は「あまり動かず」との言葉を定義に入れました。所謂、動功やスーフィー・ダンス、スパイラルダンスなど動作をともなう作業は瞑想ではないのかとお考えの方はここでの瞑想は狭義の瞑想であるとお考え下さい(広義の瞑想=動作を伴う瞑想+狭義の瞑想。動作を伴う瞑想=儀式+それ以外)。

2・2・3 補足・素材

 瞑想等の用語法は何度も言うように人によって異なります。瞑想の本等を比較しながら読む場合、不遜ですが自分の定義・用語法に著者を従わせるのが大事と私は思います。
以下は参考です。

 補足:儀式と瞑想の違い

No.555、trolさんの投稿より:
「儀式はさまざまなエネルギーを具体化させ、瞑想はさまざまな意識状態を具体化させる。儀式はシンボリズムにもとづいて構築されるが、使用されるシンボルを自分の一部とするのは瞑想によってである。」(trol氏訳John Michael Greer『智恵の小径』[Paths of Wisdom (Llewellyn) p.347])

 資料:瞑想の定義集(?)

ヨーガスートラ:「ヨーガとは心のはたらきを滅することである」。

チベット・メディテーション:「瞑想とは心識(メンタル・コンシャスネス)の活動」

霊操:「霊操とは、その名の示す通り、良心を究明すること、黙想すること、観想すること、口祷や念祷をすること、その他、後に述べるような、他の霊的働きなどのあらゆる方法を意味する。」(p.548)

東洋の瞑想とキリスト者の祈り:「…祈り・観想という語だが,これを私は次ぎのように理解している。祈りという語は、主に言葉・イメージ・思考を用いてなされる神との交流を意味する。…さらに、観想とは、言葉・イメージ・概念を最小限度にしか用いない、あるいはまったく用いないで行なう神との交流である。」
 なお、同書で著者は「ともあれ、私の言う'観想'(''内傍点付き)にたずさわっているあいだは、考えるという誘いに、よしそれがいかに'とうとい聖なる'考えであろうとも、この誘惑に屈しないでいただきたい。」とのアドヴァイスを書いている。(後述する阿字観のアドヴァイス参照)

 また、同書は以前投稿した聖なる読書・霊的な読書に関連しカトリックの伝統的な祈りの三区分、所謂
ベネディクトの祈りを以下のように説明する。即ち、
「 (一) レクチオ、つまり'読書'
  (二) メディタチオ、つまり'黙想'(ママ)
  (三) オラチオ、つまり'祈り'、」

 換言すると、 いわゆる聖なる本、霊的な本等々を読んで心惹かれる節や文や句に出会う(読書)、心の中で反復し省察などしてみる(黙想)、神様に向かって語りかけたり、御前で安らかな沈黙を保って祈ったりしてみる。そして、引き起こされる感情(熱情)や安らぎを満たされたまま保ってみたりする(祈り)という事ができるかと思います。結構普通の精神の活動ではないでしょういか?

 玄奘三蔵:禅那(禅)を静慮(静に慮する)と訳す。
  そして、我々が瞑想の原語あるいは英語として扱っているmeditationの動詞 meditateは「考えこむ、おもいをめぐらす」と訳されます。

阿字観NO.551):田中成明という真言宗をNYで伝道しているという方の【実践】瞑想と呼吸法なる著作があります。この本に少し阿字観の説明があります。
 GD研究なのにあえて触れるのは、私の僅かな瞑想体験でも自分の体験と照らし合わせても仏教の瞑想法や経論は技法や「体験」の整理に役立つと感じるからです。 ご了承下さい。
 同書によると阿字を観じるには3つの観があり

  1. 阿字の音声を観じる阿息観、
  2. 阿字の形相を観じる形相観。
  3. 阿字の意義を観じる。
です。私達の阿字観のイメージは2の観法でしょう。以下、阿息観と形相観について簡単に解説します。
  1. 阿息観
     出る息に阿と唱え、入る息に阿と念じ、その阿の声を深く念ずる。
     カバラにも類似の技法がありそうです。阿字は宇宙の真理の象徴たる大日如来の象徴。大日如来と入る息出る息を通して入我我入するそうです。
  2. 形相観
     坐して、調息、胸中に満月を観坐じ(A)、その「中」に白い八弁の蓮を観じ(B)、その蓮の上に金の阿字を観ず(C)。(胎蔵界)
     白蓮の上に円明の月輪を観じ、月輪中に金の阿字を観ず。(金剛界)
 更に、ABCを一度に観じないでやる方法などがあるようです。 何でもこのときのコツは、ただ阿、蓮、月の形色だけを観ずるのみで、その表示する阿、蓮、月の意味をかんじる必要はないとの空海の口伝だそうです。

 また、2の1つ月輪観では修行の進み具合、或いは体験の深化によって
  1. 刹那心(一念相応して月輪を見ることがあるが、電光のように=刹那に滅してしまう段階)
     刹那三昧
  2. 流註心(念念に功力=努力を加えて、水が絶えず流れるように、月輪を維持できる段階) 微塵三昧
  3. 甜美心(更に努力することにより、月輪の維持のみならず、心身ともに安楽となり道を味わう段階) 漸現三昧
  4. 摧散心(それでも、努力したり怠けたり一定しないとき、まだ完全に道を味わう事が出来ない段階) 起伏三昧
  5. 明鏡心(摧散心を離れ、心は明らかとなり、一切の執着がなくなる段階)  安住三昧
との段階が設定されているそうです。出典は善無畏三蔵の無畏三蔵禅要

 なかなか、観じ方はここに抜き出したものだけではそれほど示唆に富むとはいえないが、より詳しいやり方を参照するとためになる(これ以上長くするのはつらいので今回は割愛)。
 しかし、5段階の瞑想体験の分類は月輪観の技法に沿ったものだが、かなり説得力があるし魅力的な体験を整理する視点を提示していると思う。
 皆さんご自分の体験と照らしてどうですか?
 1,2は主として月輪の観じ方・視覚化と思われますが、3,4あたりは体験があるのではないでしょうか?


2・3 瞑想の目的

2・3・1目的設定の重要性

 さて、私達は一先ず瞑想の定義を広く捉えようとしました。そのため、瞑想の分野と技法は広大な領域を示す事になります。その大海のような領域の中で私達は「何」をするべきかが新たな問題となります。
 もし、私達に優れた師がおり彼・彼女が私達に何をするべきかを教授してくれるのならば話は比較的簡単です。彼らに従えばよいからです。
 しかし、私達の多くは独習者です。また、仮に優れた師がいたとしても彼・彼女は私達を私達がそれぞれ得たいとする目的地まで引率してくれる技量があるでしょうか。仮に技量があったとしても、私達がその目的地に達するまでこの世にとどまっているでしょうか。望み薄です。文献についても類似した事がいえます。

 結局、私達は自分の体験を通して、自らのために瞑想の訓練体系を編み出す必要性があるのではないでしょうか。(勿論最終的には目的を固持して実践を積む事によって得た成果で体系を作るのでしょうが、そこに至る方便として仮の体系を立てるという意味です)
 そこで、体系の骨組となるのが瞑想を通してなそうとする目的である。何故なら、瞑想はその目的に辿りつくための道であり、瞑想という木の果実であり、木の枝が伸びる先の太陽であるからです。

2・3・2目的

 では、瞑想の目的、あるいは魔術の目的とは何でしょうか?
 もし、誤解を恐れずに、究極の目的を挙げるとすれば、いわゆる宗教などと重なりますが、やはり「安心立命」と「現世利益」が大きな2つの視点だと私は思います。
 安心立命は「真のリアリティを得る」といってもよいし、「自然を知る」、「神を知る」といってもよい。あるいは、「破壊された容器を回復させる」「エデンに帰還する」でもよい。魔術に限れば「真のキリストの教えを理解するため」も比較的使い古された表現と思います。
 現世利益は癒し、国家安泰・護国豊穣から一族の繁栄、雨乞い、呪詛までを入れる事が出来るでしょう。
 さらに、より中立的な立場として、「暇つぶし」、「気分転換」、「人格の向上」などがあるでしょう。
 しかし、派手に問題提起したわりにはこの問題を私は収束させる自信はありません(^_^;)
 なぜなら、目的は人それぞれですから。ただ、日本では私を含め「魔術は趣味」の魔術観がかなり支配的で、それゆえに魔術の目的、しいては今回のトピックス瞑想の目的がかなり曖昧になっていると思います。

 多くの方が「瞑想が分からない」と感じるのは、瞑想の目的が曖昧な故にどののように瞑想を積み重ねて行くかが分からない、自分のやっているのが果たして目的に適っているかを判断できていないのだと思います。そのような方には目的をしっかり立てることをおすすめします。
 そして、この目的を判断基準にして瞑想方法を色々書籍等から取材したり、或いはご自分で工夫すると良いと思います。
 また、この目的は例えばHGAとの対話という大きな目的でもよいですが、最初の方はもっと小さな目的を立てるのがよいでしょう。例えば、自然界の各エレメントを理解する目的とか、タロット体系を頭に定着させる目的とかです。

 ところで、魔術訓練の一環としての瞑想では、象徴の理解や象徴を意識に定着させるといった目的が強調されがちです。確かに、象徴の深い理解によって人間性や、精神の浄化に大きな効果があると思います。しかし、「象徴を定着させる」目的だけの瞑想のきわめて浅薄な一面でしかありません。
 かつて、魔術は最高の学問でした。伝統的なチベットの僧侶の学習体系では秘密集会タントラ等の学習は長年もアビダルマ・コーシャ中論、唯識と言った仏教の教理を学んだ優れた僧侶にのみ許されたとも言います。昔は魔術や秘教を学ぶ者は長年顕教の修行を積んでいるのが前提となっていました。
 魔術との言葉からは敬遠されがちですが、基本的な死についての瞑想や怒りについての瞑想などもチャレンジしてみてください。必ず得るものがあります。


2・4 技法の分類(視点)

 目的が定まっても、瞑想は分野が広大であり、また、客観的基準や分類がなく多くの独習者にとって掴み難い。そこで、瞑想の方法を取材したり、自分で瞑想の方法を構築する場合、技法についての簡単な分類あるいは視点が必要になってきます。

 

では、どのような分類方法の使い勝手が良いでしょうか。


 例えば、秋端氏は講座でカプランによるカバラの4つの分類を紹介しています。しかし、4つでも私にとっては複雑です。
 そこでより単純な指標として仏教の概念ですが止・観を使っています。深く考えたくない人にはおすすめです。
 また、瞑想・観想の二つに分ける考えもあります。しかし、分けて考える方法を採っている方も結局両者は相互に密接して共同して働くと結論付けているのがほとんどのようです。これも固執する必要はないでしょう。
 ここでは、前述のK.マクドナルド女史のチベット・メディテーション(日中出版、1989)に従って止観を見てみましょう。

止…鎮静的瞑想

「一般的にこのタイプの瞑想は、一点集中力として知られる心の作用…を発達させるために行なわれます。その目的は一定の対象(呼吸、心の本性、概念、視覚化したイメージなど)に間断なく集中する事です。」(p19)
 キー・ワードは集中のようです。私たちにとっては、4拍呼吸、マントラ瞑想、逆向き瞑想(同書に「心の連続性の瞑想」として類似品が出ているp53。)、儀式や祈り前の沈黙、が典型例と思われる。

観…分析的瞑想

「このタイプの瞑想は知的な思考や創造的な思考を利用する物で、私たちの精神的成長にとって非常に重要な役割を果たします。なぜなら、どのようなものであれ真の洞察を獲得する第一歩は、事物の在り様を概念的に理解することだからです。このような明確な概念が確固たる信念へと成長し、それが鎮静的瞑想と結びついて、ダイレクトな直観的知性が生まれるようになります。」(p20)
 分析的瞑想のキー・ワードは思考のようです。私たちにとっては能動的瞑想が典型例かと思われます。

 止・観や鎮静的瞑想・分析的瞑想と言った用語を使いたくない方は「集中」・「思考」型瞑想と読み替えてもよいと思います。
 なお、同書では金剛乗の観想法を多数紹介していますが、観想については「観想法は二種類の瞑想が共に用いられます。分析的瞑想はイメージを造り上げるとき、…否定的思考にとらわれたりしたときに…イメージが確立して心が静まったら、一点集中力を用いて…保ち続け」(p133)ると解説しています。
 私たちの例としては、神の姿を纏う瞑想や中央の柱の行法と金剛乗の観想法とが類似性が強いと感じました。

(蛇足)

 ただし、魔術師の神の姿を纏う瞑想はあくまでもコマンドや諸力の利用がメインの目的だと思うが、仏教の方は観じた仏らと自分の仏性を同一化する事がメインのようだ。このへんはローマ時代のtheourgia(セオルギア)、mageia(マゲイア)、goeteia(ゴエイティア)の違いに似ているかもしれない。
 また、技法の面でも心臓などにシジルや文字を視覚化するのが似ている。
 しかし、相違もある。例えば、GD派魔術師が通常神の姿を纏う場合、イメージの前や後ろから纏う。それに対し、同書の技法を見る限りでは、金剛乗では小さくした神像を頭上で光に溶かし頭から心臓に入れて一体化して纏う。また、GD派魔術師は脱ぐのに対し、金剛乗は脱がない。私は、この脱ぐ脱がないの違いの原因は強いて言えば両者の目的の相異にあると思う。ここからもこれから実践を始めようとする方は目的設定の重要性を学んで欲しい。

(蛇足2)言葉による思索の重要性

神秘主義の陥穽
 神秘主義では「体験智」が重視される。ともすれば、体験が全てである。勿論、私も体験智を重視するのに異論はない。但し、ここに一つの大きな陥穽があり、この陥穽は限りなく社会的害悪の温床になりうる危険性がある。

 では、どうしてこのような危険があるのだろうか?
 少し考えて見ました。
 思うに、素晴らしい精神状態になったとしても瞑想から離れたら、それを認識する、或いは理解するのは言葉をともなう思索の働きではないでしょうか。つまり、この瞑想結果の認識・理解の部分でも分析的瞑想や思索する働きが重要な役割を私は果たすと思うわけです。
 しかし、神秘主義は体験智を重視しすぎると極端な場合、思索する能力を無視して、瞑想によって生み出される精神状況のみに無上の価値を見出し、盲目的に追随される方、耽溺する方、それ以外の価値を否定してしまう方。或いは、自ら思索せず体験について提供される師匠等の解釈を無条件に鵜呑みにする方、瞑想結果と現実との差を思索というクッションを入れず向け合わせ、混乱して暴走気味になる方などがいる。

 そのような陥穽に陥らない為には、言葉による思索の重要性を再認識するべきだと私は思う。仏教学やキリスト教神学が論理学を重視していたのは、他の宗派を論破するだけとは私は思っていない。
 また、師の見極めにおいても、それぞれの信仰する宗教等の戒律を守り、教える修行法に精通している事が最低条件であろう。道徳的非難が向けられる師は多くたとえ学識豊かで聡明であっても、その人自体が提示する教えや修行法の「信用性」に疑問を与えるのである。


2・5 実践上の注意点

 やっと、実践的なことに話題を移します。
 ここでは実践上の注意点を時間を整える、場所を整える、身体を整える、呼吸を整える、精神を整える等になるべく分けながら整理を試みましょう。勿論これらは相互に密接に関連し、一つの行為により複数の効果が生ずるので本当は分類できません。仮に分類できるとして分類していることをお忘れなく。

 A時間を整える

  理想的には、朝昼晩加えて夜の4回に訓練を行なう。或いは、古代の仏教僧よろしく、乞食と聖語と睡眠以外はずっと瞑想する。
 しかし、↑これは明らかに無理(^_^;)
 朝昼晩夜の四時のうち一つか出来たら二つの時間帯に実践できれば御の字でしょう。その場合はなるべく毎日「同じ時間帯」に実践するように心掛ける。この実践の時間を一定にするというのは見たところ古今東西共通しています。

 B場所を整える

 場所を整えるというのは、瞑想に相応しい環境を作るという意味です。古典的には郊外の閑居な場所、風水とうで好ましいとされる場所となりますが、普通は無理難題です。
 一先ず、プライヴァシーが確保できて、邪魔の入らない静かで清潔で整理された部屋が理想でしょう。
 しかし、正直共同生活をしているとこれも難しい。家族やご近所はうるさいし、道路・鉄道・航空路沿いのご家庭では車・電車・飛行機の騒音が容赦なく降り注ぎます。
 私たちが支配できるのは部屋の整理整頓ぐらいなので、なるべく整頓しましょう。最後の手段はベッドカバーやシースを被せて見えなくしてしまうのが楽。

 室温:暑からず、寒からず適温を保つ。クーラー・扇風機の使用によって喉をいためる場合や風邪を引く場合もあるので注意する。
 採光:背後から弱い光を当てるのが普通とされる。蝋燭程度なら前でもそれほど意識の邪魔はしないと思う。しかし、必要以上に気にする必要は無いし、自然光だけでも当然に良い。少なくとも釈尊やナザレのイエスの時代に蛍光灯も電球も無かったのは確かである。
 香り:オイルでもコーンでも線香でも良い。自分の呼吸器と趣味と効能を相談させて決める。無くても良い。

 C身体を整える

 座り方:所謂、神の座位・立位が魔術では一般的。しかし、起源はかなりいい加減と思われるので絶対視をする必要はない。お好みなら蓮華坐でも正座でも体育座りでもよい。ただし、中央の柱をする場合は椅子を使わない座り方は余りすすめない。
 その後、リラックスをする。凝っているときはその場所を動かしたり揉んでも良い。そして、均衡のとれた体勢をとれたらそれを保ちます。多くの体勢は体の中心が一直線になるのを要求します。中国武術等のタントウの注意点なども本屋で参照するのも良いでしょう。個人的には頭に糸をつけて引っ張られるように想像すると背筋が伸びて調子が良い。また、腎が下がると表現する人もいます。リラックスについては多くの人が述べているのでこれぐらいにします。

眼付:閉眼でも、半開きでも良い。効果が多少異なるので色々試してください。試して見て他の方はどうか?と思ったらこのMLでもよいので聞いてみましょう。
 なお、完全に閉眼しない場合は1から2メートル先の床を見る。水平にして正面を見る。など、こちらも自分に合う方を探して見ましょう。

手の位置:魔術では普通は膝に掌を下にしておきます。立位の場合はズボンの線に揃えるる感じでしょうか。ただし、この場合、指先までまっすぐ伸ばすというものではなく、力を抜いて自然に湾曲させましょう。
 なお、好みで手印をむすんでもかまいません。魔術では身印はともかく手のムドラーは一般的体系化は進んでいないようです。敏感な方は定印や輪っかが二つの阿弥陀如来の印では輪にしている指先や腕・肩で熱感や磁気のような感覚が循環する動きを瞑想中に感じるかもしれません。

 服等:衣服等、眼鏡を外す、ボタンやベルトといった衣服の束帯を緩める。女性ならブラジャー等のワイヤーが着つければ外す。体を楽にしましょう。

 

 D呼吸を整える

 やる事は正に文字通りそのまんまですね。

 呼吸法は4拍呼吸(4−4−4−4)がGD系では主流です。
 しかし、バトラー等の4−2−4−2でも当然よい。仙道等でいう武火・武息(所謂高橋仙道ならば5吸−5止−5呼。もっとも、ものの本によっては武火で激しい呼吸ぐらいの説明しかしていない。武火・文火は中華料理の強火・とろ火)、調息、文火・文息(止なし)(調息・文息・真息・胎息は著者により用語法が異なる場合が多いので注意を要する)でもよいし、仏教の数息観(呼・吸を「1,2,3、…10,1…」と数えて行く呼吸法)でもよい。
 初心者は数息観や4―2―4―2で呼吸を意識するのに慣れてから4−4−4−4に移行すれば良いでしょう。
 GDを学ぶのならば4拍呼吸法はマスターするべきでしょう。もっとも、本当に必要かはよくよく考えると多少疑問があります。

 基本的にはどれも綿々として絶える事がないように、ゆっくりとやる事が肝要です。最終的には呼吸をしているかしていないか分からないほど微細になるのを理想とする。
 但し、武火は仙道書に「皮の袋でできたふいごの如く」とあるように息の音が高く呼吸をするのでことなる。
 ノリはかなり古いですが、忍術の修行で鼻の上に羽根や毛等を乗せて呼吸で飛ばないようにやるノリです。また、呼吸のイメージとしては鼻の奥の皮膚に息が触れるのを意識する方法と鼻から下腹部にまで息が導引されるのをイメージするの二種類がメジャーです。

 仏教系では調息を分析して1風(ふう)、2喘(せん)、3気、4息の4つの相に分類する。そして、1から3を不調の相として、4を調相とする。
 なお、
 1風とは、瞑想(坐)のとき、鼻中の息に出入に声がある事を覚えるとき
 2喘とは、瞑想のとき、息に声がなくても、出入が結滞して通じないとき
 3気とは、瞑想のとき、声もなくまた結滞もしなくても、出入の細でないとき
 4息とは、声なく、結滞もなく、?(そ)・粗くなく、出入が綿々として在るようであり、ないようでもある、体を整え安穏とし、情緒面では悦予(えつちょ)を抱くときをいう。
 この分析は、日中を超えて仏教全体の共通認識のようです。ひょっとしたら釈尊の在世以前からの分析かも知れません。おそらく、実践をした事がある人ならば誰でも同意する分析だと思います。

 天台小止観では調息をするためには以下の3法によるべきであると述べています。
 1下に著けて心を安ぜよ(下著安心)。
 括弧内が白文です。「私には」正直今一つ分からない表現です。おそらく、意識を下に持っていくのでしょう。例えば腹中にもっていったり、息を腹まで導引したりすると勝手に私は解釈しています。
 2身体を寛放せよ。
 3気が毛孔にあまねく出入して通洞して、さまたげるところなしと思え。
 もし、その心を細にすれば、息も微々とすることができる。息が調えば、諸々の患いは生じないので、その心は定まり易くなる。
 だそうです。この辺も争いはないところでしょう。ただ、天台小止観は6C世紀の中国の本なので漢字使いに問題があるかもしれません(笑)

 なお、瞑想に入るときは肺にある空気を全部吐き出すことをイメージして一度チョット息を吸って、三度息をスッスッと吐きましょう。
 呼吸法は腹式呼吸が一般的です。また、呼吸器系に持病がある方はお医者さんに相談するのが望ましい。

 E精神を整える

 大体、これ以前に紹介した実践上の注意点を守ろうと意欲している時点で精神は整えられます。そこで、ここでは簡単なテクニック的な事を述べたいと思います。

 まず、「小間物ウイッチクラフト」との言葉がありますが、良い意味で小間物を使う事によって日常生活と区別した魔術用または瞑想用の精神を働かせる事が出来ます。多くの場合、魔術的ペルソナなどとこの精神の状態は称されたりします。
 具体的方法としては、魔術用の赤いスリッパを履いたり、指輪や首飾り小物を身につけたり、瞑想用のポスター・タペストリーや小さい画像を取り出して壁に掛けたり机に置きます。ここで重要なのはこれらを日常生活で使用しない事です。可能ならば目に見えないところに保管します。

 次に、できる簡単なテクニックは簡単な誓言や祈りを瞑想の前後に加えます。
 この場合、誓言とは「我、**のNNは、これより(技術名等)を行なう」といったものです。
 他方、祈りとは所謂祈りで信仰の対象に自分が瞑想する意味や目的を述べて、それに対する助力を求め、或いは加えてその瞑想の効果や成果多少昔風に言えば功徳を神や全人類に奉げることを宣言します。多少恥ずかしい文句も使うと効果的だと思います。

 では即興で例を作ってみましょう。ここでは瞑想が全人類のためになると考える人が、人生や精神の成長の為に瞑想をすると仮定します。かなり恥ずかしい人物を設定しました。対象は忘れかかっていますがGD研究会ですので「聖なるかな」をつかいます。

 例:
 「(略)」
 こんな感じでしょうか? しかし、私は文才ありませんね(^_^;)
 でも、西洋人のを見ると、こんなカンジなのが多いと思います(受身なのが多い)。当然瞑想が終わったら感謝の祈りも捧げましょう。ちなみに、私はこんな恥ずかしい祈りは決して実践でしません。
 せいぜい、GDの各元素の瞑想において、
 「(略)」
 程度です。大体、誓言にチョット色をつけたぐらいです。
 色々試して、一番自分にとって効果があり、しっくりするものを探してください。

  日常生活での注意

 精神を整える注意点としては、日常生活での注意もあります。食生活等にも言及するべきですが、過食拒食等にはしらず、節制を守れば十分。
 より重要なのは、余り後悔するような言動をとらないことです。へんに後悔すると瞑想に?できなかったり、否定的な感情が助長されます。後悔するような言動をとったら、少し考えて、反省し、あやまるべきことならばあやまる。あやまる必要がないものならばあやまらないなり、どうしてそのような言動をとったか相手に説明する等整理をつけます。
 あやまる等の行動を取っても気持ちの整理が付かない場合は、一応反省して「これ以上悩むのはよくない、私には**の目的があってこれ以上悩むのはその妨げになる」等々必要以上に悩む事は止めるように努力します。

 その他:瞑想中の雑念の処理はいろいろ人によってありますが、雑念の出入り(起こってくる様)だけを観察する(ながめる)のが一般的です。叩歯(歯をがちがち鳴らす)も試されると面白いと思います。

 心構え:瞑想をやると、皮膚や肉体の感覚、精神の状態等に表現しがたい感触や感覚がえられます。しかし、それは誰でもであってあなたがなにか特別なわけではありません。
 へんな事を考えないようにしましょう。
 代表的な感覚としては、肉体の拡張、皮膚の感覚が外界との区別が曖昧になったり、内部から膨張する感覚、蟻が皮膚の上を歩くような感覚、ぬるま湯につかっているような感覚、肉体感覚の消失、精神の拡張感、高揚感、焦燥感、透明感、体が白っぽく光って見えたり、暗いのに妙に明るく見えたり等など。

 おまけでグレイの心得の再録


 「
 その7 「メッセージ」を手にいれようと試みるな。神秘的な声を聞こう としたり、どのような種類であれ幻想を探そうとしてはならない。何事も 起きるのであり、動揺させられることを頑固に拒絶し、より深きところで「無限」と接触しようと努力するべきである。もし、制御できなくても、動揺させられる事から超越しようとする君の意図は,それ自体が熟慮すべき霊的な価値を持っている。

参考になる本

(略)

 付録:「黄金の夜明け団の西洋神秘主義の中での優秀性に関連し、なぜ今回のLet'sで多くの仏教の諸説を採用しているかの説明」

 西洋の神秘主義は当然にキリスト教を重要な母体にしています。神秘主義は「概念的には」神秘体験・神秘思想・神秘修行の構成要素に分類できます。頭の整理には便利な分析だと思います。
 ちなみに神秘体験とは神秘家が体験する全て、特に「神秘的合一体験」を通常指します。背景や価値観が違いますが仏教の涅槃もやはり神秘体験に入るでしょう。この神秘体験を言葉で表現したものが神秘思想であり、神秘体験に到達する為の人間側の努力・準備が神秘修行です。
 修行方法・修行論や修行の過程の人間の内面的変化の分析は広義の神秘思想に含まれます。

 ところで、これらの神秘主義はそれぞれの伝統的考え方を背景にします。キリスト教やムスリムといった有神論的伝統では神秘体験は「神の特別な恩寵」と理解します。他方、仏教は人によっては宗教ではない哲学だとか、無神論だ等といわれるぐらい本来は有神論的伝統が弱く神秘体験を「仏の特別な慈悲」とは「余り」理解しない(鎌倉仏教とかは置いとく)。

 このような背景の差からキリスト教やムスリムでは「神の恩寵」と神秘修行のふたつの方向が向かい合い、且つ、「神の恩寵」が修行より重要になります。なぜなら、「神の恩寵」なく神秘体験は起こり得ないと考えるからです。キリスト教では、このような背景から、修行の過程における神秘家の内的状態の変化については詳細な分析(魂の暗夜や荒みなど)がありますが、修行論については全てを神に委ねるのが「修行」ですから余り発展はしなかったようです。もっとも、ムスリムではキリスト教に比較すればより修行に積極的な意味を与え修行論が発達しました。

 他方、仏教は明治以前の呼称である仏「道」の文字に端的に示されるように、ある意味、悟りへと向かう修行論・修「道」論が全て、教義は全て本来は悟りを得るための方便・道であったといえる。その為、修道論の発達が顕著であり、しかも近代仏教学の興隆前後に渡るかなりの蓄積が日本では僧侶ではない私たちにも利用できます。特にチベット系は中国の政策で厳しい立場にいるためか良書がダライ・ラマ14世等の高位の僧侶らによって近年多く出版され邦語でも参照できます。

 そして、魔術を見ると、キリスト教を伝統的背景に発達した西洋魔術の伝統では修行論はそれほど発達したとはいえません。黄金の夜明け団の西洋魔術の伝統における優秀性は、カバラの生命の樹と元素論を融合させることにより魔術の修行論・カリキュラムの領域において、外陣の実態・カリキュラムの内容を考えると極めて不充分であったとしても、修行論の体系化の問題に先鞭をつけ、一定の枠組みを提供した点にもとめることができるでしょう。もっとも、マサースが修行論の体系化を試みたとは私は思っていない。
 しかし、黄金の夜明け団の西洋魔術における優秀性を修行論に置いたとしても、以後は研究者(学者以外に実践者を含めます)も儀式魔術なだけにカバラやエノク、分析心理学との統合、幻視とかに興味が集中して修行論に(私の参照できた出版物を見る限り)進展は余り見うけられない。魔術の目的自体が個人によってかなり広範囲なので体系化しにくい、する必要もないとの事情もあると思います。

 

 このように西洋魔術における修行論の不備を考えると、Let'sで取り扱っている瞑想のジャンルにおいても、仏教やヨーガの修行論を参考にする必要が高く、今回仏教の諸説をかなり採り入れる結果となりました。ご了承下さい。

以上
参考文献表(略)cf.bibliography
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作成者: TRK
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